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西暦と元号・天皇・干支一覧表
西暦と元号・天皇・干支(えと)一覧表

 日本の”元号”は、”日本書紀”によれば、大化の改新で初めて用いられたとされています。
西暦や天皇、干支(えと)と併せて歴史をお楽しみ下さい。
干支(えと)の仕組みと読み方
干支(えと)の仕組みと読み方

 60歳を還暦と呼ぶ理由や干支(えと)の仕組みの概説です。
正保越後国絵図
新発田市立図書館蔵 正保越後国絵図

幕命により作成された「正保越後国絵図」。そこには、誤りもあるようです...
阿賀野市の文化財
阿賀野市の文化財
阿賀野市にある国、県、市が指定した文化財合計64点の一覧表です。
旧安田町(やすだまち)の遺跡
阿賀野市の旧安田町(やすだまち)の遺跡と歴史
阿賀野市の歴史は旧石器時代から始まるようです。

旧安田町(やすだまち)の遺跡の一覧表には、宝珠山には黄金伝説もあるようですが...
発久(ほっきゅう)遺跡
阿賀野市の旧笹神村の発久遺跡 歴史的遺産
 旧笹神村の発久(ほっきゅう)遺跡から、西暦795年(延暦(えんりゃく)14年、桓武天皇が平安京に遷都した翌年)のものと推測される月朔干支(げっさくかんし)を書き連ねた簡便な暦の木簡が出土しました。
 吉兆などの具注を伴わない暦様の木簡は本邦初出だそうです。阿賀野市の歴史の深さを感じさせる遺物です。
発久(ほっきゅう)遺跡の四足瓶(よつあしびん)
阿賀野市の旧笹神村の発久(ほっきゅう)遺跡から出土した歴史的遺産の四足瓶(よつあしびん)
 発久遺跡からは、元国立歴史民俗博物館教授吉岡康暢氏により、「世界陶磁全集 2 日本古代、小学館、p.208」に、「何を形象したものかも明らかでない」と紹介された謎の横瓶(よこべ)が出土しました。
 FLASHによる全周囲動画もあります。
「直江兼続・上杉景勝と笹岡城」はこちら
阿賀野市旧笹神村の笹岡城の本丸跡
 貞和年間(1350年頃)に南朝に仕えた篠岡中将資尚により築城された笹岡城の本丸跡。

 戦国時代には直江兼続と上杉景勝が新発田攻めの前線基地として利用しました。
 巨木”十郎杉”を眺めながら阿賀野市の”歴史”を感じてみましょう。
               新潟県阿賀野市の歴史

阿賀野市
には、その東縁に位置する五頭連峰の麓に野中遺跡やツベタ遺跡など、笹神(ささかみ)丘陵やその麓には上野林遺跡など石器時代〜縄文時代や弥生時代およびそれ以降の遺跡が多数発掘されています。

2万数千年前から1万3千年前の石器時代の上野林遺跡(地図)からは、氷河時代のハンター達が使った新潟県最古の石器が見つかっています。
 阿賀野市の歴史を考える上でのスタート地点と言えます。
(引用文献,安田町(やすだまち)教育委員会,1994,ふるさと読史地図)

縄文時代の野中遺跡(地図)やツベタ遺跡(地図)(以上、旧新潟県北蒲原郡安田町)からは、ストーンサークル(環状列石)や大地震による液状化跡(5000,4000,3600年前)や地割れ等も見つかっています(以上、”自然”のページや「月岡断層と地震について」を参照して下さい)。
 これは、新発田(しばた)−小出(こいで)構造線(≒月岡断層、フォッサマグナの東縁)の活動を示す極めて貴重な資料となるもので、私たちの大地にはまだまだ数多くの”宝”が眠っていそうです。

奈良時代から平安時代の旧笹神村の官衙(かんが=官庁)遺跡と推定される発久遺跡(ほっきゅう、地図)からは、西暦795年(延暦(えんりゃく)14年、桓武天皇が平安京に遷都した翌年)のものと推測される月朔干支(げっさくかんし)を書き連ねた簡便な暦の木簡(もっかん)が発掘されています(参考文献,笹神村教育委員会,1991,発久遺跡 発掘調査報告書 木簡について,pp.1-12)。

平安時代末期の1134年(長承(ちょうじょう)三年、崇徳天皇)に、現在の阿賀野市のほぼ全域と新潟市の一部が藤原忠通の所領として立荘されました。(参考「笹神村,2003年,笹神村史 資料編一,pp.254-255)
 その後、皇嘉門院(こうかもんいん=藤原聖子(崇徳天皇の皇后))に譲渡されました。
 1180年(治承(じしょう)四年、高倉天皇)には、源頼朝より伊豆の大見氏(大見郷(現.伊豆市、旧.中伊豆町)に土着した桓武平氏の後裔)が地頭に補任(ふにん)されました。
※藤原忠通は、1121年に鳥羽天皇の関白に就任。その後も崇徳・近衛・後白河の3代に渡って摂政・関白を務める。1156年には、源義朝・平清盛らの武士団を招いて保元の乱を起こし、後白河上皇、藤原忠通と源義朝、平清盛は勢力を伸ばした。破れた崇徳上皇は、讃岐へ流されました。

南北朝時代の貞和年間(1350年頃) 、南朝に仕えた篠岡中将資尚により笹岡城が築城される。
 戦国時代にはいるとこの笹岡城は、歴史ファンには見逃せない「天地人」で脚光を浴びた上杉景勝・直江兼続の新発田攻めの前線基地となりました。

江戸時代の1645年(正保二年)に、幕命により新発田(しばた)藩が高田、長岡、村上藩とともに正保越後国絵図を作成しました。
 この絵図には多少不正確な箇所もあるようですが、この絵図によれば、
 福島潟の北方には島見前潟と5,000年ほど前に誕生した砂丘があり、その先に日本海がありました。
 西方には、信濃川と合流して日本海に注ぐ阿賀野川があり、東方には、現在の新発田がありました。
 福島潟の南側には、現在の新潟市高森、同長戸呂、同里飯野、阿賀野市沖ノ館、新発田市天王、同三ツ椡などの地名が見え、ここまで福島潟が広がっていました。
  従って、阿賀野市の殆どの地区は江戸時代初期から存続していたようです。
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