発久(ほっきゅう)遺跡について
(観光情報のページの
笹神地区郷土資料館も参照して下さい)
発久遺跡のある阿賀野市(旧北蒲原郡笹神村)発久は、五頭連峰に源を発する折居川と大荒川そして笹神丘陵から流れ出る小規模な河川の氾濫原に位置し、現在の標高は約5mです。
下の空中写真(国土地理院,1998/11/29, 撮影高度:4,650m)の黄色い丸印の箇所が発久遺跡のあった場所で、写真の右側(東側に笹神丘陵の尾根が見え、河川は概ね南東方向から北西方向に流れています。
発久遺跡の周辺は現在水田の単作地帯となっています(下の写真は、丸印の箇所から右方向(東方向)に撮影した写真で、背後に笹神丘陵と五頭連峰の北側半分が写っています)。
笹神村教育委員会(教育長:小船戸 斉舟)発刊の「笹神村文化財調査報告8 発久遺跡 発掘調査報告書,1991」の前書きには、以下のように概要が述べられています。
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発久遺跡は、新潟県北蒲原郡笹神村大字発久字山伏塚769番地ほかに所在する遺跡である。戦後昭和28年頃に開始された水田の土地改良工事によって、多くの須恵器類が検出され、発久遺跡として知られるようになった。『世界陶磁全集2』に紹介された
四足瓶は、他に類例を見ない異形の横瓶であり、この遺跡の特異さを示すものとして知られていた。
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この様に、1988年(昭和63年)の発掘作業着手前から関係者の間ではそれなりの期待があったようで、月朔干支(げっさくかんし)を書き連ねた簡便な暦の木簡が発掘されたことでその期待が現実化しました。阿賀野市にとっても、また、日本の古代史を研究する上でも、歴史的に極めて価値が高い貴重な文化財が手に入ったことになります。
この木簡は、前出報告書中の「木簡について(新潟大学人文学部教授 小林昌二氏および国立歴史民族博物館教授 平川南氏の解説)」によれば、
西暦795年(延暦(えんりゃく)14年、桓武天皇が平安京に遷都した翌年)のものと推測される月朔干支(げっさくかんし)を書き連ねた簡便な暦の木簡だそうです。また、吉兆などの具注を伴わない暦様の木簡は本邦初出だそうです。
その使い方は、日々重要な
干支を知るための暦として「上端部に穴を穿ち、柱に掛けておき、半年過ぎた段階で裏がえして残りの半年分を利用していたのかもしれない。」との事です。
文字の解読には赤外線カメラを用い、年代の判定には「日本暦日便覧(湯浅吉美編、汲古書院刊)」を用いて閏月の有無から上記のように延暦14年と判定したそうです。(実物の写真は
笹神地区郷土資料館を参照して下さい)
木簡スケッチ(長さは約15cm) 木簡復元案
下の写真が、『世界陶磁全集2 日本古代(小学館)』に、「類例がなく、何を形象化したものかも明らかでない。」と紹介された九世紀の須恵器”
四足瓶”です。この
四足瓶の全周囲動画は
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