旧安田町(やすだまち)の遺跡について    


 新潟県阿賀野市の旧北蒲原郡安田町には、石器時代から明治時代までの遺跡が30以上あります。
 ここでは、旧安田町教育委員会発行の「ふるさと読史地図,1994年」および新潟大学 高浜信行(研究代表者)の「地表の変動と遺跡の成立・破壊の関連の研究 平成9年3月」などを参考として、年代順に各遺跡の概要をご案内致します。
 なお、西暦と元号についてはこちら干支(えと)についてはこちらをご参照下さい。
 有史以前については、「地質時代と日本列島及び五頭連峰」をご参照下さい。

年 代 遺跡名称 概      要
2万数千年前−1万3千年前 上野林の旧石器遺跡群 上野林丘陵に点在する遺跡群。上野林J遺跡から出土した石器は、今のところ新潟県最古のもの。
約5000年前〜 ツベタ遺跡 吉田東吾によって発見された縄文中期〜後期の遺跡。新発田−小出構造線(≒月岡断層)の活動による大地震に起因したと推測される5000年前と3600年前の液状化跡が確認された。また大規模な土石流が繰り返し発生していたと考えられる。
約4200年前〜 野中遺跡 明治期から石鏃が発見されており、盛んに盗掘されていた遺跡である。縄文中期の火炎型土器や石鏃、磨製石斧、土偶などとあわせてストーンサークルも発見されている。ツベタ遺跡と同様に、約4000年前の液状化跡や土石流後が確認されている。
縄文後期 藤堂遺跡 遺物の量と種類が豊富な集落遺跡。土偶、土版、耳飾りなどの装飾品、漁労遺物、石鏃などが出土。
縄文末期−弥生時代中期 六野瀬遺跡 一度埋葬した遺骸を掘り起こし、洗骨後あらためて土器に入れて埋葬した「再葬墓」遺跡。稲作農耕社会へ脱皮しようとした開拓者の共同墓地。
縄文末期−弥生時代中期 大曲遺跡 上記と同じ
4世紀 雲雀田遺跡 古墳時代前期の遺跡で土師器(はじき=穴の中で摂氏700度程度で焼成された厚肉の素焼きの土器)は北陸や会津地方のそれと似通っている。玉作りの際に発生する剥片も発見されている。
8世紀中頃−9世紀前半 五輪敷沢窯後 奈良−平安期の須恵器(すえき=摂氏1100度以上の高温で焼成された朝鮮半島由来の陶器)を焼いた登り窯跡。
奈良−平安期 不動院の製鉄遺跡 六野瀬不動院の丘陵にある「たたら」跡。鉱滓(こうさい=スラグ)やフイゴの羽口や大量の木炭が発見されている。いつ頃から営まれたかは明確でないが、同時に操業された可能性がある奈良−平安期の須恵器窯跡が存在している。
10世紀 横峰B遺跡の住居跡 上野林丘陵横峰B遺跡からみつかった平安時代の竪穴式住居2軒。一辺が3.5m〜4mの隅丸報型で南壁の東寄りに「かまど」があり、煙道が突きだしていた。出土した須恵器の杯(ツキ)の蓋には硯として利用された跡があった。
12世紀末 横峰経塚群 平安時代末期の経塚(教典を埋納した仏教遺跡)2基。直径10m〜12mの円形で周溝があった。陶製経筒、和鏡、短刀、青磁合子(ごうし=フタのついた器)、五鈷鈴(ごこれい)、水晶玉など豊富な埋葬品が発見された。出土遺物は一括して新潟県指定文化財となっている
古代−中世 赤松城山 五頭連峰の宝珠山中腹尾根の赤松山にある山城跡。空堀や腰郭(こしぐるわ)が見られる。
1212年 焼栗山孝順寺 建暦2年(西暦1212年)開基とされる浄土真宗大谷派の寺院。親鸞聖人の越後七不思議の一つ「三度栗」の寺として有名。「三度栗」は、信徒の捧げた焼き栗が親鸞聖人の法力で一年で三度実をつけるようになったという謂われから。
中世 六野瀬館跡 阿賀野市六野瀬東方にある縦約200m、横約100mの中世開発領主型武士館跡。幅15〜20mの堀と幅3〜8mの土塁がめぐっていた。
13世紀後半−14世紀初め 赤坂山中世窯跡 鎌倉〜南北朝時代の赤坂山丘陵にある陶器窯跡群。カメ、ツボ、スリバチなどを焼いていた地下式の登り窯二基が発掘調査されている。技術的には、知多半島や北陸地方とのつながりが深く、六野瀬館跡などからはここで生産された陶器が出土している。
南北朝 草水の石切場 「草水(くそうず)の桜御影(さくらみかげ)」と呼ばれる花崗岩の産地。国会議事堂など全国各地で利用されているが、磨崖石仏(如意輪観音座像)の制作年代は南北朝初期のもの。
1468年 臨澤山観音寺 応仁2年(西暦1468年)長尾氏の招きで来越した月窓明潭和尚の開山。上杉謙信が中興し、謙信のまもり本尊の不動明王像を寺宝とする名刹。末寺19ケ寺有し、謙信の戒名の一字「心」をかたどった池もある。戊辰戦争では会津藩の陣屋となり兵火に焼かれたが、明治15年(西暦1882年)に再建された。
17世紀前半 安田城跡 治承(じしょう)四年(西暦1180年)に源頼朝より越後白河荘に補任(ふにん)された大見安田氏の居城となる。安田氏が上杉景勝に伴い会津に移ると安田は村上氏の領地となり、吉竹右近が在番した。元和4年(1618年)村上氏廃絶後は堀直奇の支配となり、同8年(1622年)安田城は廃された。寛永16年(1639年)直奇の二男直時が遺領3万石を与えられ安田藩が成立した。その後、正保元年(1644年)直時の子直吉が居所を村松に移した。現在の城の遺構は堀氏時代のもので、本丸、二の丸、内堀、外堀の一部、土塁の一部が残されている。
1549年 院殿塚 天文11年(西暦1542年)に篠塚宗左衛門は安田城主安田長秀の不在に乗じて安田城に入城したが、天文18年(1549)に新発田長敦らの軍勢に攻められて絶命した。その篠塚宗左衛門の首塚と伝えられている。
1564年 立石神社 この地方に干ばつのあった永禄7年(西暦1564年)に、虚空蔵山中の池から汲んだ水を「山神石」と呼ばれる立石にかけて降雨を祈願したのが立石神社のはじまりと伝えられている。ご神体は約7mの流紋岩。ちなみに、阿賀野市では宝珠温泉近くの城山や宝珠山に流紋岩が分布しています。この表の最下段の「宝珠山」の項を参照してください。地図は、ここをクリック。
安田野 上野原とも言う。洪積世の段丘で、石器時代から中世までの遺跡が密集する。上記の、「上野林J遺跡」、「藤堂遺跡」、「大曲遺跡」、「横峰経塚群」などが有名である。慶長5年(西暦1600年)に上杉景勝と堀秀治が戦った「上杉遺民一揆」の際、上杉方の村上義明の軍勢1000余騎が野営した台地としても知られる。
1616年 福隆寺の観音堂 元和2年に僧仙雅が再興した蒲原観音巡礼の一番札所。昭和60年消失後昭和62年に再建した。
1652年 古江用水路の跡 承応元年(西暦1652年)、村上藩が掘削した用水路の跡。その後、享保19年(1734年に)新発田藩が起工した「新江用水路」に利用された。
猿田彦神社 阿賀野市庵地(あんち)の庚申堂として知られるが、伝説では安田城北門の守護神と言われている。
1684-1688年 火除土手 ダシの風(日本海を低気圧が通過した際に、この地に強く吹くフェーン現象を伴う強い南風)による火災の延焼を防ぐために設けられた防火土塁。貞享年間に6カ所設けられた。全国的にも極めて珍しい史跡。
1734年 新江用水路 江戸時代中期に新発田藩によって掘られた延長30kmの農業用水路。阿賀野川から取水し、阿賀野市安田−分田−京ヶ瀬−新潟市岡方−長浦の2千町歩(2000ha)の田を潤し新郷川と福島潟へ落ちる。
1739年 大鷹山福正寺の五百羅漢 元文4年(西暦1739年)に建立された曹洞宗の寺で金沢市玉龍寺の末寺。散逸を免れた羅漢像の一部(50数体)は寺宝となっている。
1833年 天保飢饉の供養碑 近世三大飢饉(ききん)の一つである天保4〜10年(西暦1833〜1839年)に全国的に発生した大飢饉の供養碑。天保の大飢饉は大塩平八郎の乱の原因ともなった。
1864年 吉田東吾博士の生誕地 日本歴史地理学の先達「大日本地名辞書」や”卑弥呼=南九州(熊襲)の女酋”説をとなえた「日韓古史断」などの著者。元治元年(1864年)生まれ。
1868年 赤坂山の古戦場 慶応4年(西暦1868年)7月末から8月中旬にかけて、阿賀野市六野瀬化〜赤坂〜小松地区は戊辰戦争の激戦地となった。
1883年 丸山のキリスト教会堂 明治16年(西暦1883年)、新潟、新発田、佐渡に次いで、県下4番目のキリスト教会堂として建築された。パリ外国宣教会から派遣されていたカトリック神父ドルワール(1849−1930)が私財を投じて建築した。
宝珠山
(ほうじゅさん)
五頭連峰最南端の山で黄金伝説がある。ただし、マグマが流れて固まった流紋岩が宝珠山や阿賀町中ノ沢近辺に分布していることから、熱水活動による金鉱床がその近くにあってもおかしくありません(「知床から金が出るか?」参照)。また、実際に五頭連峰の裏側、新潟県東蒲原郡阿賀町の中ノ沢には金山があったことからして、黄金伝説に全く根拠がないわけでもありません。


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