直江兼続・上杉景勝と笹岡城 |
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笹岡城趾は、新潟県阿賀野市(旧笹神村)の笹岡地区にあり、笹神丘陵の一部とも言える地点にあります。その標高は、本丸が19m、物見台が24.3mあり、本丸の面積は約2,600m2あります。 また、周囲の田んぼとは約10mの標高差があります。 この笹岡城は、「天地人」の直江兼続や上杉景勝とも多少の因縁があるようです。 |
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現在の本丸跡 H21年5月3日 米沢市の中心に位置する 米沢城本丸に位置する上杉神社の拝殿 米沢城では最上氏を母に持つ伊達政宗も誕生した。 1608年に上杉景勝が直江兼続に 大改修を命じたお城で立派なお濠が残っていました。 参拝客が整然と並んで順番を待っているのには 感心しました。 ゴールデンウィークの上杉神社は混雑していました。 「天地人」のお陰だそうです。 「なせばなる...」で有名な上杉鷹山の像 江戸時代随一の名君だったそうです。 米沢城(上杉神社)を取り囲むお濠 直江兼続が食料にもなると奨励した ウコギの垣根 |
笹岡城の築城は、貞和年間(1350年頃)に南朝に仕えた篠岡中将資尚による、と看板には書いてあります。なお、看板には、天正13年(1585)に廃城になったと記されていますが、下記の引用文献では、天正14年に笹岡在城衆の活躍の記述があったりします。 この笹岡城は、今、大人気であるNHKの大河ドラマ「天地人」の主人公直江兼続や上杉景勝に関係があります。理解を助けるため、年代順に整理してみます。(引用文献、「笹神村史 通史編」、H16,3,15笹神村発行 他) ○享禄3年(1530)上杉謙信、春日山城で誕生 ○天文23年(1554)上杉景虎、誕生 ○弘治1年(1555)上杉景勝、誕生 ○永禄3年(1560)直江兼続、誕生 ○天正6年(1578)謙信、春日山城で急死。その跡目を狙った謙信の二人の養子である上杉景勝と景虎による御館の乱(おたてのらん)が勃発。 ○天正7年(1579)上杉景虎、鮫尾城にて自害 ○天正9年(1581)織田信長、御館の乱での恩賞を不服としていた新発田重家を上杉景勝と戦わせた。笹岡城は景勝方の前線基地であった。 同年、お船の婿養子となり直江兼続として直江家を継ぐ。 ○天正10年(1582)直江兼続は、木場城主蓼沼知重に新発田重家を倒した暁に新潟代官の任命を約束する等裏工作を実施。景勝は、直江兼続配下の板倉式部少輔を派遣し裏工作進め、景勝は自ら新発田の五十公野へ進軍したが失敗。 ○天正11年(1583)景勝が五十公野や新発田の町を放火し田を刈り捨てた。笹岡城の酒井氏には恩賞として加茂市の下条を与えた。 ○天正12年(1584)羽柴秀吉が徳川家康と和睦し、秀吉が天下統一。 ○天正14年(1586)笹岡在城衆が新発田方の水原勢と戦い、上杉景勝よる感状を受けた。秀吉が上杉と新発田の調停を始めたため、一時、新発田攻めを中止したが、結局、新発田氏の征伐を命じた。 ○天正15年(1587)景勝が新発田の五十公野に着陣し、二ヶ月後新発田氏を滅亡させた。 ○文禄4年(1595)秀吉が佐渡金山を上杉景勝に預け、直江兼続に運上させた。 ○慶長2年(1597)上杉景勝が五大老に就任 ○慶長3年(1598)秀吉により上杉景勝が会津・佐渡など120万石に加増・移封され、直江兼続は米沢6万石(異説有り)を与えられた。 ○慶長5年(1600)直江兼続が西笑承兌に書簡(直江状)を送る。関ヶ原の戦い勃発。 直江兼続は総大将として東軍の最上氏攻めを行うも失敗に終わる。 ○慶長6年(1601)上杉景勝と直江兼続が徳川家康に謝罪。上杉家は米沢30万石へ減封となる。 その後、直江兼続は最上川に直江石堤を築くなどして米沢藩の基礎を固めた。 なお、直江兼続は越後の与板城主時代にも治水事業に腕を発揮し、直江川の開削なども行いました。 (詳細は、滝沢農園の「直江兼続と白根大凧合戦」のページをどうぞ。こちらでは、直江兼続が家康を激怒させたという”直江状”の詳細など深く掘り下げた直江兼続にまつわる記事に特徴があります。) ○元和5年(1620)直江兼続が江戸で死去。享年60歳。 |
左の写真は、笹岡城本丸への登り口途中の阿賀野市(旧笹神村)指定文化財の「十郎杉」。 昭和55年に立てられた看板によれば、その樹齢は約450年、高さ24mです。 その名前の由来は、以下のように4つあるそうです。 1.十郎丸という連絡船を繋いだ。 2.十郎という人が植えた。 3.城楼杉。笹岡城の望楼の役目を果たした。 4.女郎杉。笹岡城の奥女中を葬ったとか、宿場町笹岡の遊女を葬ったとか。 |
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Web Guide 阿賀野 直江兼続・上杉景勝と笹岡城 |